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    六角義秀研究

六角義秀研究

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テーマ: 六角義秀研究
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六角義秀の研究・序
 『お湯殿の上の日記』の天文年間の記事には、「かめ」「かめこ」「かめしゆ」「かめちよ」と六角氏嫡子の幼名亀寿や亀千代が頻出する。とくに天文十四年(一五四五)十二月五日条に「かめしゆけんふくにて。すけ殿.. » more
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『お湯殿の上の日記』と六角亀寿
 六角氏が足利義晴の保護者として京都で活躍する天文年間に、『お湯殿の上の日記』に「かめ」「かめこ」「かめしゆ」の記事が頻出する。「亀寿」「亀千代」は六角氏嫡子の幼名として有名であり、応仁・文明の内乱期.. » more
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足利義晴政権と六角亀寿
 幕府の正常化が進められると、それを契機に六角氏が京都政界に積極的に関与するようになった。天文六年(一五三七)には六角定頼が近江守護正員に就任している(3)。それとともに亀/亀子の記事も頻出するように.. » more
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六角亀寿の元服
 天文十四年(一五四五)には進物の記事は見られないが、亀寿元服の記事がある。それは十二月五日条の「かめしゆ、けんふくにて、すけ殿より二色二かまいる」という記事である。亀寿元服の御礼として典侍が進物をし.. » more
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六角亀寿の実名
 天文十四年(一五四五)十二月五日に六角亀寿は元服した。しかし『お湯殿の上の日記』では、元服以後も亀/亀子として登場する。親しみを込めて幼名を通称のように使用したのだろう。そのために六角亀寿の実名は、.. » more
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『万松院殿穴太記』作者と六角氏
 足利義晴の臨終記『万松院殿穴太記』は、十二代将軍足利義晴が天文十八年(一五四九)に近江に逃亡し、翌十九年(一五五〇)に近江で没する最晩年とその葬礼の様子を叙述したものである。『言継卿記』天文二十三年.. » more
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六角亀千代
 天文二十年(一五五一)六角氏が将軍義輝と三好長慶の和平を斡旋した。翌二十一年(一五五二)一月二日に六角定頼は没するが、和平交渉は続けられて和談が成立した。同月二十三日義輝は朽木を出発し、二十八日には.. » more
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六角義秀と小倉良秀
 『厳助往年記』天文二十二年(一五五三)八月一日条によれば、将軍義輝の軍勢が松田監物を大将にして東山霊山城に立て籠ったが、このとき松田監物は討死にし、宰相が負傷している。この宰相は徳川公であろうか。そ.. » more
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桶狭間の戦いと六角氏
 弘治三年(一五五七)九月五日に後奈良天皇が没した。このことで、天皇家女房衆が一新した。もはや『お湯殿の上の日記』を記す人々は、亀にとっては疎遠な人々になってしまった。そのため六角氏が京都で活動するよ.. » more
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修理大夫書状
 葛川明王院文書三十六巻に(年未詳)閏三月十九日付新三郎宛修理大夫書状(18)が残されている。六角佐々木氏系図略や沙々貴神社本をはじめとする系図や軍記物で義秀の官職を修理大夫と伝えており、義秀の書状と.. » more
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観音寺騒動と足利義輝殺害事件
 永禄四年(一五六一)六角氏は河内守護畠山高政とともに三好包囲網を築き、翌五年(一五六二)三月五日畠山氏は三好長慶の弟実休(義賢)を敗死させ、六角氏も承禎(左京大夫義賢)・義治(四郎義弼)・高定(次郎.. » more
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足利義昭入洛運動
 将軍義輝の実弟・一乗院門跡覚慶は、将軍御供衆一色藤長や細川藤孝の努力と、越前守護朝倉義景(左衛門督)の交渉・手配によって奈良脱出に成功した。さらに将軍御供衆和田惟政(伊賀守)の案内で六角氏の保護を求.. » more
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