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    六角義堯研究

六角義堯研究

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テーマ: 六角義堯研究
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六角義堯の研究・序
 義堯は発給文書が多く残っていることから、その事跡はかなり明らかである。元亀元年(一五七〇)六角氏は越前朝倉義景や北近江浅井長政・比叡山延暦寺・本願寺と連携を取っていたが、義堯は元亀三年(一五七二)に.. » more
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甲賀武士と六角義堯
 甲賀武士というとすぐに甲賀忍者を想像してしまうが、実は自立した中小領主による一揆(地域連合)であり、中には朝廷・公家や幕府に直仕する者もいた。この甲賀武士と六角氏の関係は深く、山中文書や黒川文書には.. » more
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山中文書と六角義堯
 元亀・天正年間に六角承禎・義治父子とは別に六角氏当主がいたことを示す六角承禎書状が、滋賀県山中文書(3)に収められている。それは、義堯書状の内容を山中大和守(俊好)に知らせた(年未詳)十月二日付六角.. » more
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武田勝頼と六角義堯
 義堯は元亀三年(一五七二)甲斐武田信玄と連絡を取っていたが(山中文書)、翌四年(一五七三)に信玄が病没した。そのことで元亀の信長包囲網に大きな穴が開き、十五代将軍足利義昭は京都を追放され、越前朝倉義.. » more
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武田勝頼との同盟
 甲賀武士の子孫に伝えられた滋賀県黒川文書(11)に、義堯書状が収められている。それは、天正二年(一五七四)頃に義堯が甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を画策していたことを示す、六角義堯書状である。 .. » more
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一向一揆との連携
 天正三年(一五七五)四月織田軍が大坂本願寺に向かったことを聞いた六角義堯は、大和国吉野郡飯貝に所在する浄土真宗寺院本善寺に宛て書状を発給し、何か承ることがないか尋ねるとともに、上洛のため軍事行動を起.. » more
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上杉謙信と六角義堯
 上杉謙信は六角義堯の要請を受けて織田信長包囲網に加わった。それまでの謙信は、武田信玄との対抗上、信長と友好な関係を保っていた。足利義昭と信長が対立しても、謙信は信長と結び信玄の背後を脅かした。謙信は.. » more
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織田信長包囲網の形成
 上杉謙信が要請を受け入れたことに対する義堯の礼状が、『歴代古案』に収められている。同文書の三宝院義堯書状がそれである(26)。この義堯書状は『越佐史料』に掲載されているが、原本がないために花押を確認.. » more
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毛利氏と六角義堯
 吉川文書には、六角義堯書状が多く含まれている。それは、天正四年(一五七六)の足利義昭の備後下向を実現させたのが義堯だからである。もともと義堯は吉川元春から年頭や歳暮の祝儀を贈られるなど交流があった。.. » more
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吉川元春と六角義堯
 『大日本古文書』吉川家文書では、一連の義堯書状を畠山義堯書状とする。しかし義堯花押が近江国内の木村文書・黒川文書に収められている六角義堯書状の花押と一致し、また『大日本古文書』小早川文書所収の『礼銭.. » more
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足利義昭・六角義堯の備後鞆津下向
 毛利氏は天正四年二・三月に足利義昭と真木島昭光が備後下向の援助を求めても承諾しなかったが(36)、同年四月に六角義堯が要請すると受け入れている。足利義昭の備後鞆津への移座は、義堯が交渉に乗り出したこ.. » more
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細川昭賢と毛利氏
 吉川元春は使者今田経忠を立てて備後鞆に着津した足利義昭一行を訪れて祝儀を贈ったが、その際の(天正四年)十月二日および三日付の一連の文書が吉川文書に収められている。  まず十月二日付のものは、足利義.. » more
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