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武田信玄

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テーマ「武田信玄」の記事を新着順に表示しています。(1ページ目)

武田義信の死12 武田義信の死に関連した家臣、曾禰氏。その系譜について調べてみた。曾禰氏は武田氏の庶流である。新羅三郎義光の孫、逸見清光の七男、禅師玄尊から続く。ちなみに玄尊の兄、武田信義が武田氏嫡流。『武田氏家臣団人名辞典』から曾禰一族を見 ... » more
テーマ 雑記 武田義信 武田信玄

武田義信の死11 平成28年(2016)4月、山梨の地方紙に「信玄直筆の文書確認」という見出しが出た。信玄自筆文書の宛先は、「曾禰掃部助」(そねかもんのすけ)。文書の内容から、曾禰虎長という人物が推定されている。この曾禰氏、元は武田家庶流(し ... » more
テーマ 雑記 武田義信 武田信玄

武田義信の死10 武田父子の不仲について、近年新しい史料が見出されたようだ。2014年2月に刊行された、『長篠合戦と武田勝頼』平山優著には次の様な記述がある。武田家中での紛争は、信玄と嫡男太郎義信の対立として現出した。信玄と義信父子の対立がいつ起 ... » more
テーマ 雑記 武田義信 武田信玄

武田義信の死9 武田義信が、自らの行動を示した最後の記録がある。「甲州二宮造立帳」山梨県御坂町美和神社所蔵文書これは神社再建の奉加目録である。これは何らかの願いの成就の為に、神社の再建を誓った物なのであろうか。小生には、この古文 ... » more
テーマ 雑記 武田義信 武田信玄

では実際この「義信謀反」・「義信事件」などと称される事象が起こるまでの経緯を詳しく見てみる。義信死後、後継の重責を負う勝頼の事績も加えてみる。武田義信は、天文7年(1538)に誕生する。父晴信、母三条夫人共に18歳と伝わる。一方 ... » more
テーマ 雑記 武田義信 武田信玄

武田家の歴史の中で、武田義信の死はとても重要である。義信死後の武田家中には暗雲が立ち込めている。つまり身内の死が付き纏う形となる。義信の死後、北条家に嫁いでいた信玄の娘が実家に戻り病で亡くなる。義信の母、三条夫人が亡くなる。信玄自身が亡 ... » more
テーマ 雑記 武田義信 武田信玄

武田義信についての詳しい記述がある書に、『信玄の妻』上野晴朗著があります。この書も題目の様にその主は信玄の妻でありますが、他書に比べれば義信に関わる記述の量は多大であります。武田父子の諍い・対立は様々な憶測が成されていますが、いかん ... » more

最近、人の後ろ姿を見ることに興味が出た。小生は、はっきり言うと人間が苦手である。何故か分からないが、昭和と平成という2つの時代を生きてきたが、平成は何となく落ちつきが無い。何時も急かされている雰囲気が蔓延している様に思えてならない。これ ... » more
テーマ 雑記 武田信玄

武田義信の死5 武田義信は、永禄10(1567)年10月19日にこの世を去っています。病死か?自害か?はたまた?武田義信の死の真相は定かではありません。現在、甲府市の東光寺に、武田義信の墓(供養塔)が存在しています。何を意味するのか ... » more

義信の求めに応じた父信玄は、福恵翁和尚を東光寺に向わせました。その日から、和尚は義信の病床にて法話をしました。「人生に余りが無くなったとき、もうこれで死ぬのだと悲しむ人があるが、それはおろかなことである。余りが無くなったことは無 ... » more
テーマ 雑記 武田義信 武田信玄

武田義信の死3 新田次郎氏の作、小説『武田信玄』。武田義信は最期の時を迎えます。義信は自ら、「長禅寺の福恵翁和尚を呼んでくれ」―、と山県昌景に頼みました。義信からの依頼があったことを信玄は昌景より報告を受け、「いよいよ義信も最期が来たの ... » more
テーマ 雑記 武田義信 武田信玄

歴史散策―真実を求めて―格差社会
最近この言葉をよく耳にする。耳にすることにも増して、その格差の底辺に自身が存在していることも痛感する。社会が行き詰っているから、仕方のない事でもある。よくよく考えてみると、小生が幼児の頃は、今と同様に貧富の差があったように思える。しかし ... » more

武田義信の死2 新田氏の小説、『武田信玄火の巻(三)』「喜びと悲しみ」の中で武田義信の最期が語られています。信玄に謀反を起こした後、東光寺に幽閉されていた義信が風邪ひき発熱を出し寝込んだという知らせが、側近の山県昌景より知らされました。信玄 ... » more
テーマ 雑記 武田義信 武田信玄

房州おきの嶋 これは、『甲陽軍鑑』の「末書」に記された、「名地」の一つとされる場所です。信玄公は家臣を各地に赴かせ(使者等で訪れる)、その都度周辺域の地形を探索させていた。そして絵図面にして信玄公はその土地を吟味していた。信玄公が知っていた諸国の ... » more

為五郎の足跡(史跡編)小諸城
小諸城 武田信玄の東信州経営のために縄張りされた城で、酔月城、穴城、白鶴城、鍋蓋城、などの別名を持ち、日本100名城の28番に選定されています。現在は、市営公園小諸城祉懐古園として整備されています。 ... » more
テーマ 城郭 武田信玄

ストレス―、と云うと、いい感じはしない。現代人にとっては負の言葉ともなっている。がしかし、このストレスは大昔、人類の先祖が天敵から身を守るために備え付けた護身術であったようだ。危険を感じると、脳から指令が出され、ストレスホルモンが体を巡 ... » more

武田義信の死 以前、山梨県立図書館にて新田次郎氏の作品を読みました。『アルバム&エッセイ武田信玄』という書です。昭和62年9月に刊行された書で、新田氏の没後の書であります。その書の中で、初出が昭和50年の記述の中に武田義信についての記述がありまし ... » more
テーマ 雑記 武田義信 武田信玄

歴史散策―真実を求めて―神宿る自然
神宿る自然 先日、雄大な富士山をまじかで見てから、増々自然が恋しくなってしまった。山梨県内では、武田氏に関する講演も県立博物館で催され、頻繁に通った。武田氏研究会の副会長に就任している平山氏の講演はとても面白かった。その前は黒田氏の講演であり共に聞 ... » more

貧乏旅―ほしのや伝承地― 貧乏旅のラスト。近日読み終えた、『『甲陽軍鑑』の史料論―武田信玄の国家構想』に詳しく記されていた。ほしのやとは?武田信玄公が新たな城下町を築こうとした場所である。場所は神奈川県座間市。地図上では谷戸山公園付近一帯のことの ... » more

武田軍の編制―その一例― 武田軍の編制。『甲陽軍鑑』にはその詳細が記されている。とは言っても、それは「末書」という別巻である。『改訂甲陽軍鑑』上中下三巻には、この「末書」は掲載されていない。後に刊行された『甲陽軍鑑大成』には全文が掲載されている。後者は、恐ら ... » more

『甲陽軍鑑』「武田法性院信玄公御代惣人数之事」を詳しくみていく。家臣団の家格や奉行・近習衆が記された後、軍の編制(寄親以下相備え)が記されている。その前に、武田軍が軍事行動を行う際、例として2万人を動員する際の編制が、「末書下巻 ... » more

『甲陽軍鑑』の「惣人数之事」には、騎馬数が記されている。騎馬数、九千百廿一騎。この騎馬数を前記の家臣団の項に記された騎馬数と照合してみた。親類衆12名1,595騎譜代家老衆17名2,485騎(累計4,080騎) ... » more

「武田信玄陣立書」 ―総括から精査へ― 表題の史料、武田軍の陣立書に記された人名等々を『甲陽軍鑑』を主体に見てきた。一方他の文献を調べたところ、この陣立書の解説をしている文献があった。『【もの】から見る日本史―戦争1中世戦争論の現在』(青木書店)である。陣立書全体 ... » more

武田軍の陣立書―続、毛鑓〜 武田軍陣立書の続きです。初めに、「毛鑓」。この毛鑓とは、鑓の先端に鳥の毛などで装飾・飾付けした鑓で、大名行列の際、先頭を飾った物の1つである。その次に、「廿人衆」とある。廿人衆とは、『軍鑑』の「惣人数之事」の中に記載があ ... » more

武田軍の陣立書―続、白須新五左衛門〜 陣立書の続き。「白須新五左衛門」の名がある。『軍鑑』の「惣人数之事」には「御小姓衆」の中に「白須平次」という名がある。注記には、白須又市の子とあり。白須は山梨県北杜市白州町の地名とある。『武田信玄大事典』では御小姓衆の解説が ... » more

武田軍の陣立書―続、廻奉行〜 武田軍陣立書の続き。今回は、「廻奉行」から。廻奉行というのは「惣人数之事」には記載がないため不明。そこには人名らしき2名の名がある。「水上」・「西山」である。水上は「惣人数之事」に記載なし。西山は「惣人数之事」では「諸国へ御使者 ... » more

武田軍の陣立書―続、馬之衆〜横目衆?まで― 武田軍の陣立書。「馬之衆」には、山形勘解由左衛門尉(足軽大将衆)と原隼人(譜代家老衆)の両名がおり、その下には、小姓衆が馬上で控えていたようだ。「馬之衆」の後には、岩手能登守という人物が記されている。その下には、「代々之 ... » more

武田軍の陣立書(鉄炮衆〜弓衆と馬之衆の一部か?) 武田軍の陣立(本陣旗本)を記した史料がある。本陣の主は信玄公であり、記された家臣の名から推定する作成時期は1567〜69(永禄10〜12)年のころとされている。以前、山梨県立博物館で催された「甲斐の黒駒」展において、その一部分を直に ... » more

武田軍の足軽大将は、与えられた騎馬が50騎以下の指揮官を指す(『甲陽軍鑑』末書)。その出身は甲斐国と牢人で占められている。他国衆から足軽大将への出世はその子弟に限られているようである。足軽の由来は、軽装で機敏に行動することの出来る身分の ... » more

武田軍の侍大将とその配下の構成 武田軍が編制される時、部隊の長になるのが侍大将。侍大将に任命されるのは、武田家臣の中で、御一門衆(御親類衆)と御譜代家老衆に限られる。侍大将の指揮下には、先方衆や足軽大将が配属され、その他には武田家から与えられる、軍役衆・牢人・雑兵が加 ... » more

 

最終更新日: 2016/11/20 03:54

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